世の中は情報に溢れている。その中で情報の価値を判断し、仕分けしていく必要がある。その具体的な手法について言語化してみる。下記を踏まえて、最終的には直観的に正確に処理できるのが望ましい。なお、抜けているところがあれば適宜加筆・修正する。
まずは具体的な手法について。以下の①~⑥の要素を実施するのが「6tree流虚実の仕分け方」である。
まず事実と解釈は明確に区別できるものではない、ということを押さえて欲しい。
あくまで二次元で表現される濃淡である。
例えば、医者が語る喘息の話と、患者の語る喘息の話、一般人が語る喘息の話があるとする。医者にとっては、教科書や論文をベースとした事実寄りの内容が多い。一般人にとっては病気の世間的なイメージが背景にあり解釈的な要素が増える。一方で医者が語る内容全てが事実とは限らず、一部医者なりの解釈が出てくる。患者にとっては症状などは実感のある側面だが、論文などの解釈能力はないため、事実と解釈が混濁した状態となる。
上記例に挙げたとおり、話をマクロ的に捉えたとき、事実と解釈が様々な濃度で混ざっている状態を意識するのが望ましい。
世の中の多くの事象には「人間」が関与するため、主体となる人間の存在を意識することが大切である。特に、主体が「見える範囲」を押さえなくてはならない。「肩書き」の限定性について気をつけなくてはならない。
例えば、医師と言っても医療の全分野について(個人の力だけで)語ることは難しい。自分の分野については何も参照せずとも語ることは容易いかもしれないが、その他の分野については参考文献を使わずに語ることは難しいだろう。
例えば、精神科医がコロナ感染症のワクチンについて語るのは、かなり違和感があると言えばわかるだろうか。実際、精神科の病院は(患者特性や単科病院などの背景ゆえに)感染対策の側面では遅れていることが多く、ワイドショーなどでコロナ感染症のワクチンについて何もなく語ったら、事実よりも個人の解釈の側面が強くなるだろう。
また、主体は複数存在しうることを忘れてはならない。
例えばアプリなら、最低でも発注者と開発者が関わりうる。その二者の視野はかなり異なるため、双方の視野について検討が必要である。またその両方の視野がちゃんと重なっているかどうか、についても検討が必要である。制作物でのミスの多くは、この複数視野の重なりやコミュニケーションの齟齬が原因となる。
相関関係と因果関係で間違うこともあるが、不適切な論理提示のパターンがある。
一例を具体例とともに提示する。
因果における根拠は「事実」であることが望ましい。
だが、世の中には純然たる事実なんぞ存在し得ない。
例えば「ガイドライン」。あれは専門家の集合知であるが、あくまで専門家の実感(解釈)と論文(事実>解釈)をミックスさせたものであり、事実寄りではあるものの、解釈をなくすことはできない。その解釈により事実が不十分であっても対応可能な側面があり、よく出来た集合知であると言えるだろう。
ガイドラインを引用して語ることで、事実寄りの表現が出来る。ただ、その中にも話者の解釈が混ざるものであり、それを避けることは不可能である。
つまり、因果関係を語る上で(相対的な)解釈濃度を測ることは避けられないのである。
該当情報が「誰が誰に伝えるべき情報なのか」は忘れてはならない。
例えば、Twitterにおいて、個人で一般向け医療情報を語る者がいるとしよう。
まず主体について。個人で発信する意義はなんなのだろうか?そもそも該当分野の専門家が自分しかいない場合は、ものすごく有効だろう。しかし、多数の専門家がいる場合は、その多数の専門家の力を組み合わせて発信する方が望ましい(学会などは本来そういう役割だと思われる)。
客体について。客体となるフォロワーはどういう層だろうか。一般向け医療情報に関心のある層、つまり医療意識の高い一般人もしくは同類(医療情報発信者)がメインになるだろう。逆に言えばそれ以外の人に伝えることは難しいため、その前提でものを語っているか、が重要となる。
つまり、あらゆる発信において、情報を置く「場」として適切かどうかを考慮する必要があり、それを違えている発信者は非常に不味い。なお、Twitterの医療者の多くはこれを違えている。
そもそも①~⑤の要素のいずれかで「間違い」がある場合、その「情報」は適切な情報とはいえない。これらの間違いは一朝一夕で修正はできないものであり、そういった「誤情報」を流す人間は間違いを繰り返す傾向にある。
したがって、そういった誤情報を流しうる人間には「危険信号」の目印をつけておくのが望ましい。Twitterで言えばミュートやブロックなどの活用、手元の情報として「fake list」を作っておくのも1つの手である。もちろん、そういう情報を流しうる存在の情報を参照する際には、細心の注意を払うことが望ましい。
基本は上記に示した通りなのだが、参考文献については誤解が生じやすい観点なので、上記の応用として以下に示す。
全ての文章に参考文献がついていたらキモいのだが、文献がついていないことが問題となる事柄もある。例えば、「データ」を示す場合。事実>解釈らしさとして、○○は××%などと示す場合は、論拠となるデータを示すのが望ましい。ただデータにも、データそのもののregulation(対象が母集団を十全に反映していない面や代替とした指標に限度がある面など)や採取した人間の解釈が混じっているため、十全たる事実というものは存在し得ないことは、上記にて示した通りである。
では、文献を示す意味とはなんぞや?というところに行き着くのだが、極論は、個人の「解釈」の確からしさを示す(「事実」に寄せる)手段である。文献の有無とは、個人の解釈なのか、それが個人の枠に収まるものではないのか、を示す手段である。その手段を利用せずに「事実」性を持たせようとしたり、文献を用いて誤認・誤読を誘発させようとしたりする文章を書いている人間に対しては、かなり懐疑的な目線を持った方が良いだろう。
この話をしようとすると、科学的な論文の質を持ち出すアホがいるのだが、基本的にそれは不要である。基本的に上記基本に忠実に思考すれば良いだけの話である。むしろ、質の高い研究手法だから、という思考停止に陥る方が害が大きい。研究だろうと記事だろうと、上記基本にしたがって、事実と解釈、論理構造を捉えていけば良い。どんなものであろうと、この基本でダメと判断されるものはダメである。
「文献が示すとおり○○です」と言っておきながら、「文献が述べていないこと」をでっち上げていたりする。例えば、WHOがマスクの有無により子どもが参加機会を失ってはいけない、と言っているのに対して、子どものマスクは害があると言い換えたNewYork Timesの記事(下記リンク)があったが、こういう詐欺的テクニックは国を問わずどこにもあるなぁ、と思うところである。
At Head Start, Masks Remain On, Despite C.D.C. Guidelines
Coronavirus disease (COVID-19): Children and masks
また、主従関係は意識しなくてはならない。
主従関係は、文献から物事を引用する上で意識すべきことである。基本的に引用の事柄が「従」になっていなくてはならない。つまり「主」とすべき事柄を語った上で、その補足として「従」が存在すべきである。その関係性を意識した文章であるかどうかは、書き手の技量を捉える機会の一つでもあるため、常に確認した方が良い。
上記のような内容を実現するためのリテラシー教育として、必要な要素をここに挙げていく。
感情の発露は人間にとって自然な反応である。それを無理に抑制する必要はないが、感情などのバイアスの有無に関係なく同じ「答え」が出せることが望ましい。
そもそも思考のコントロールができない人は、1対1で調整していくことが望ましい。個人で行動を是正するのは困難である。
いわゆる自己領域外に対して「専門家」になる必要はなく、片手間で努力しようと「半端もの」にしかなり得ない。しかし、いかなる現場であろうと、どのような役割の人間がいて、各人がどういう視野でどういう仕事をしているのか、は常に観察すべきである。特に自己領域外に行く機会があれば、観察を怠ることは「社会的自殺」を意味すると肝に銘じるべきである。
自立したとしても、常に監修する人間を一人以上確保すべきである。能力自立ができていなければなおさらである。
世の中の変化に伴い適応していくにあたり、必ず指標の調整が必要になる。それを一人で確実にやるのは不可能であり、私も無理だから人材を手元に確保している。
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